自分で取った写真や、他の誰かが撮った写真、ウェブ上から選んだ画像など、元になる様々な風景画像をコンピュータ上で加工をする。色彩を奪い取り、奥行きをなくし、画像の中の情報を取り去る。そうしてスカスカの骨の様な状態になった画像を、今度は写真製版の技術を使い銅版に置き換え、紙に刷る。
そして、断片化され、紙に定着された輪郭を延々となぞっていき、絵画として成立させる。
重要な事は「なぞる」という事で、「自分が何をしたら良いのかわからない。」とか「本当は何も描けないのではないか。」など、制作に於ける無根拠さや茫漠とした失望感を認め、そしてそこから新たに始めるという事。
はじめにイメージを持ち、何かを描くのではなく、自作のルールの上で近視眼的になぞっていく事のみで、絵画としての全体像や絵画の中での自由を獲得していく事。
もう1つは「選択」の問題である。例えば全ての輪郭を選択し、なぞっていくという事も可能性としては考えられるが、ウェブ上にはり巡らされたリンクの様に、全てを選択してしまうという行為は不可能性と危険に満ちあふれている。
僕はむしろ、1日の始まりにヤフーのニューストピックスで多くの人がそうする様に、その中の5つや6つ程度のトピックをクリックする事でのみ、各人がそれそれの「世界」を構築できる可能性を持っているのではないのかと考えている。
また、コンビニに行き、水を買おうと思えば、そこに売っているミネラルウォーターの種類の多さゆえ、我々はここでも選択肢に迫られる事となる。私たちはこういった選択の不自由さの中で生き、一方でまた、その不自由さを信頼する感覚を同時に持ちあわせているのではないだろうか。
今を生きながらも、自分か抱えている不安や、信頼など、他者や世界との関係性を制作のプロセスに転換する事で、空気遠近法で描かれる絵画や、解剖学的に描かれる絵画でない、より同時代的であり、且つ、自分にとって信頼の於ける絵画空間を獲得する事がでるのではないかと思っている。
このように、絵画に於ける制作のプログラムを新たに組み直し、それを延々とシステマティックに繰り返す事で、生命の生成に於ける突然変異があるように、ある瞬間、突如として、又は緩やかに、紙であった画面が芸術として立ち現れる瞬間があるとする。アーティストは、このプログラムの中で絶えずYESとNO(時には沈黙)を繰り返し、延々と決断を下していく。そして突如起こりうるそれを待ち、確実にすくい取る事が仕事なのだと思う。
そうする事によって初めて、近代社会がでっち上げた還元主義では表象し得なかった、現実社会の多様さや、複雑さ、またそれらを克復し、超えたところにある「何か」を絵画によって表象する事が出来るのではないだろうか。
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